趣味とか呟きとか

趣味ブログ。端的に言うと自己顕示欲の置き場所。絵を上げたり、本の感想書いたり、長い呟きとか。

2018/2/7

久しぶりにアクセス解析をのぞいたら1/30あたりから見ている人が増えていて驚いた。(日記も別に更新してないし何があったんだろう?)

 

近況といえばインフルエンザに罹った。

本当に青天の霹靂というやつで、前日まで何ともなかったのにその日は午後からあっという間に具合が悪くなった。

しかもタイミングが悪いことにその日はWiFiルーターの設置やらなんやらを業者に頼んでいたため、結局18:00ぐらいまでベッドで横になりながら作業を見守るなどの行動しか選択肢がなかった*1。(超態度悪い)

その時間になると近隣の病院はもう閉まっていたので仕方ない、明日病院行くか。ということで出前を頼み、それを食ったら寝てしまおうくらいに思ったんだけど、なんか体が超寒い。

これはおかしいなと思って試しに体温を測ると39度近く出ている。

ここらへんで、これもしかしてただの風邪じゃなくない?みたいな不安が出てくる。

最近インフルに罹った友人にインフルの初期症状を尋ねると、B型はそんなに熱は出ないけど、たぶんそれはインフルエンザだと思うよという返信が来て、不安がさらに強くなる。

明後日用事があるのに…とかこれインフルだったらばっちり期限と被ってる書類があるじゃんとかこれインフルだったらサークルの人間にテロったやつじゃん*2など様々なめんどくさい案件が脳内を走り抜け、思わずナナチみたいに泣いてしまった。(ナナチなので部屋で一人で泣いていてもかわいい)

結局、出前も食べず、即冷蔵庫に入れてその日は眠ることにした。

 

21:00くらいにすごい吐き気で目が覚める。

めっちゃ吐きたくないので(吐くのは超つらいので)そのまま横になって吐き気と必死に格闘していたんだけど、ついに根負けしてトイレで吐く。(吐き気って我慢してると腹痛みたいに一旦引いてまた強めのが来てって感じになるのを学習した)

よくわからないけどなんかぼーっとし、熱が39.5度とか出ていてさすがにやばいと思い、対策を考え始める。

まず高熱。

自分は知識がなかったんだけど漠然と40度越えたらまずい、脳にダメージが入るし、吐き気も熱によるものだと思ったので(実際は知らない)、とりあえず太い血管のある首の後ろにひとつ、おでこにひとつ冷えピタを貼る。

次に栄養。

朝から大したものを食っていなかったし、栄養がなければ対抗できず、死ぬと考え、とりあえず栄養をぶち込むことにした。(空腹感もひどかった)

マルチビタミンアンドミネラルの錠剤二つ、スポドリホエイプロテインを水でとかしたもの、チョコ二つ

これで少し落ち着いたのでやっぱおれは天才だなあ。と思いながら寝る。

(自販機でスポドリを買いに行くときに、ふらふらしながらやばいやばいやばい…とずっとつぶやき、若干奇声をあげながら買いに行った記憶がある)

 

 そこから一時間後、吐き気で目を覚ます。

本当に勘弁してほしかった。

ベストな対応をしたと思う。超考えた。

ここで吐いたら全部水の泡だろ。

しかし吐き気には勝てなかったのでちょっと吐くくらいならまだ残るだろうからいいかと考え、吐いた。

ゲロが超甘かった。ひたすら甘い。

しかも全然止まらない。超吐く。残るどころか胃袋が空になったあたりでダメ押しで吐き気が襲ってくる。

もうなんか疲れたし、これはものを入れると吐くやつだなと思ったのでそのまま寝た。

 

そこから一時間後、また吐き気で目が覚める。

もう限界だった。吐くものはすべて吐いた。

病院の開く時間にはほど遠い。カカシがイタチに72時間刺された奴*3を思い出した。

とりあえず吐くがもう何も出てこない。ここには何もない。吐き気だけがある。

胃袋には虚無だけが残り、悟りが開かれてくる。

今まで確かに死にたかったが、実際死にそうになるとマジできつい。

死は贅沢品だという言葉が思い出される。死ぬときは安楽死するためにいっぱい金を稼ごうと強く思った。

 

どうせ死ぬならこの辛さでは死にたくねえなあと思ったため、救急車を呼ぶことにした。

でも実際呼ぶべき状況なのか不安だったのでまず救急車を呼んでいいか判断するアプリを落とすことにした。

それを五回くらい選択肢を変え、一番症状に近い選択肢にしていった結果、救急車を呼びましょうと出たのでビビりながら119にかける。

オペレーターさんが出る。急患ですか事故ですかと聞かれたので、あのちょっと救急車呼んでいいのかわからないんですけど…と自分の症状を説明する。

そしたら呼んだ方がいいと思いますといわれたので住所を伝え、呼んでもらう。

後は運ばれ、救急隊員に最初は心配されるが最後の方は呆れみたいな感じの対応をされ、病院では、自分で呼んだの?はい…。ふんw(鼻で笑われる)

こういうので救急車をほしくないんだよねと嫌味を言われ、点滴を希望するが無理と言われ、会計が足りないので雪が降る中を近くのコンビニまで行かされ、ATMで金を下ろそうと思ったら時間外だったので無駄足だったとかそういうド級の不運イベントが起きた。

そのあとはタクシーで家に帰り、解熱剤を飲んで寝て、翌日も解熱剤とリレンザウイダーをぶちこむという感じで今は完治した。

 

最後走り書きになっちゃったけど、今回の学びとしては

インフルの予防接種は大事。

解熱剤、食料(ウイダーがよかった)、金の貯蓄はしとくべき。

という感じ。

*1:見守るよう契約書にサインさせられた

*2:午前中サークルの集まりがあった

*3:月読

2018/1/21

明けましておめでとうございます。(もう明けてからだいぶたってるけれど一応。)

テスト期間に入っており、ゼミの課題もきつく、そろそろ自分の存在意義、今までの人生の意味などを問い始めた。

今の要望はとりあえずサナトリウムに収容されて、人生の心配事や自分の無力さを忘れ、美人で巨乳のお姉さんにやさしく接してもらい、日の入る白くて清潔な部屋で静かに過ごしたい。

サナトリウムの外には広い芝生の場所があって、奥にはハウルの動く城ハウルカルシファーの思い出に出てきたような水車のある洋風の小さい家があって、そこにはかわいくて小さい女の子とおじいさんが住んでおり、その子と毎日追いかけっことかかくれんぼをして過ごしたい。

アルプスの少女ハイジじみてきた。)

 

やすらぎが欲しい。というか、やすらぎを見つけるのが上手くなりたい。

やすらぎの見つけ方はどこで身につけられるんだ、誰か教えてくれ。

こんな感じだから宗教の重要性がよくわかってきた。

自分より大きな存在を信じて身をゆだねるというのは非常に安定するだろう。そこに色々話せるコミュニティができれば、なおさらそれは楽になるんだろう。

 

ヴァイオレットエヴァーガーデンを見た。

とてもよかった。

前々から京アニがあまりにもそれを推していて(全世界同時放映だのなんだの)、それがいちアニメに対する姿勢として不適切だと思っていたから、これは京アニ大賞のプロモで、ここで大賞が取れればこんだけ力入れてアニメ作るぞとか、安い脚本料でいいのを作りたいのに応募作品が少なくなってきたから増やしたいがためにやってるのだろうとか勝手に考えてたから、穿った見方で見たけど面白かった。

(実際応募作品が減ってるのかどうかちょっとだけ調べたけどよくわかんなかった。)

あの主人公の少佐に対する一途さというかひたむきさ(少佐のことしか見えていない感じ)を見るたびに事実(実際は死んでないかもだけど)を思い出して本当に、あはれなり…という感じになって顔がゆがんでしまった。

あと主人公がセイバーっぽかったのも個人的にポイントが高かったです。

(セイバーかわいいよねセイバー)

あとは中佐がヴァイオレットを好きになってヴァイオレットとカトレアの関係が悪くなったりしないでほしいです。

(カトレアはヴァイオレットのよき理解者なので)

話まとまらなかったけどまあいいや。

2017/11/16

日記を書く頻度が高くなっていると感じたため、タイトルを年月日式にした。

いつからかははっきりとはしないのだけど、人生が辛かったので思考回路を変えてしまおうという試みを始めて、最近効果が出てきた気がする。

その結果、現在以前の思考回路と最近の思考回路が競合しているような現象を体験していて、それが面白いので日記を書いてみた。

自分は失敗というか恥をかいたと思うと、ずっとネガティブな気持ちになってしまい、死にたいなどの考えで頭が占有されてしまったのだが、現在それを考える意味がないのではないか(それで失敗した環境や集団は変わらず、自分の時間やメンタルなどのリソースを大量に消費しているに過ぎないため)という考えがある。

このように別々の思考回路があり、なんとなく恥をかいた、失敗したと思ったことがあるとどうなるかというと唐突にネガティブな気持ちに占有され、

死にたい!俺はもうだめだ!

と叫び、そのあと、

なぜ明らかにマイナスであることを僕はしているんだ?仕事をやったり、カバーを考えた方がずっと有益では?

という疑問が生まれる。

この現象が面白い。

なんだろう、単に思考回路の競合性の問題だと思っていたが、これは思考回路の優位性が変わる境目の状態なのか、それとも何かの精神疾患の前兆もしくはもうすでに罹っているのだろうか、それとも別の何かなんだろうか。

精神疾患だとちょっと治療が必要になるけど、思考回路の競合性の問題ならこのまま現在の思考が優位になってくれればうれしい。

日記

昨日今日と休日だった。

やはり休日はいい、素晴らしい制度だ。

前回の日記で休日は閉塞感が強くなると書いたが、あれはあの後に避けられない面倒なイベントがあったからだと気がついた。

昨日やったことといえば課題、友達と飯に行くくらいだし、今日は買い物に行って課題をやっていたぐらいだけど、好きなだけ寝ることができて人の多い空間に束縛されることもコミュニケーションを無理にとる必要もないのはとても安まる。

 

今度他大の友達が学祭で朝から劇をやるということなので友達と観に行くことにした。

ただ、そうすると課題をする時間が結構減るのでそれでも大丈夫なよう、自分のレポートの締め切りとか講義の時間とかをエクセルにまとめて予定を立ててみた。

まとめていて気付いたんだけれど、可視化すると現状を客観的に見ることが出来そうだ。

まあどの程度客観的に見れているかはわからないが、とりあえず一歩引いた視点から現状を見ることができる。

その結果、クソゲーだなという感想は出てきた。

お金などの資源系のものも可視化したら無駄を減らせそうだと思った。

 

 

人間社会は基本的にサバンナと変わらないと最近特にそう思う。

強いものが利益を持っていき、弱いものは損をする。

強くなるためには全体の濃度勾配を自分が高くなるように調整しなければならないので、他人の取り分を減らさなければならない。

そのためうまくマウンティングしたり、けなしたりすることで弱い人の価値をさらに下げてその人の自由にできる領域を狭めて自分のものにするというのがあるんだけど、これは人間に元来備わっているものらしく、サークルなどの閉鎖空間ではよく起こるし、今日は交差点で5歳くらいの子が妹とみられる子に対して行っていた。

自分はそういうことが下手だ。

ただこの戦略が強いのは本当にクソゲーだと思うので、早くこのクソゲーから解放されたい。

 

 

 

ブログを書いていると叔母の訃報が母から届いた。

亡くなったということがどういうことなのかとてもとらえがたい。

適切な反応は何だろうかと考えているが思いつかない。

フィクションではわーっと泣いたり、急いで帰郷して、親族と悲しむ。などがあるが現実でフィクションみたいな行動をとるのは間違いだということが最近分かってきたので、たぶん間違っていると思う。

適切な反応は思いつかないが、ただ身近な人が亡くなったということがなんとなく重苦しさというか感情にやるせなさとか取り返しのつかなさみたいなフィルターをかけたような状態ではある。

 

叔母の訃報は昨日、母から今日は山場だと伝えられていたので藪から棒ではなかった。

フィクションの山場は大抵越えられるもので、越えた後は記憶喪失などの不幸でリハビリを行うか、全快のどちらかだからまあ大丈夫かなどと思っていたが、実際は越えられずそのまま亡くなってしまった。

やっぱり山場は越えがたいものなんだと実感している。

 

叔母は僕が小さいときに会ったのと中学生くらいで祖母の家にいるときに会ったくらいだと思う。

祖母の家には昔からよく行っており、帰省もする。

一方、叔母の家は祖母の家ととても近いのに全然行っていないし叔母にも会っていない。

祖母の家に叔母が来ることもあったが、その時はなんだかんだ自分の中で理由をつけて会わなかったし、祖母も無理に会えとは言わなかった。

僕が生まれたときは結構お世話になったらしいけどその記憶はない。

本当に僕は親不孝というか恩知らずだな。

 

祖母も胃に癌が見つかったらしく、近々胃を切るようだ。

祖母とは家族で一番密接にかかわっているので祖母の訃報が届いたら僕はたぶんしばらく立ち直れないと思う。

 

 

全体的に全く文がまとまっていないし論理性もなくて申し訳なさがある。

とどのつまり言いたいことは今大変で本当に人生はクソゲーだ。ということだ。

まどマギ映画でほむらが魔女化するシーンの流れや考察の走り書き

ほむらが魔女化するときのシーンが個人的にとてもエモかったので流れや考察を走り書きしてみた。

youtu.be

(ほむらが魔女になる瞬間、場面はほむらの一番幸せな記憶(深層心理の世界?)になる。)

 

ほむらは、あっ...!と小さく声を漏らし、寒気を覚えたのか、あたりを見回し、何かにおびえる。
(ここから幸せな記憶が絶望に浸食されていく)

 

大切な存在であるまどかが急に立ち上がり、こちらを見てにやりと笑い、椅子からおちる。
(唯一の心の支えがいなくなるという意味?)

 

それだけは絶対阻止しようとほむらは記憶の中の自分を追い越して必死に助けようとする。

(ここで冒頭のほむらが魔法少女になるときの演出→この演出は普通の子から何かに変わるときの演出ではないだろうか。)

また、ここのまどかには人間らしさがない。これは大好きな人間に見捨てられる、いなくなってしまうという絶望の表現だと感じた。

 

しかしまどかはほむらの手のほんの少し先で壊れてしまう。
(周りにはシロツメクサが咲いている→花言葉は私を思って、約束、復讐など。)

 

それに絶望しているほむらを使い魔らしきほむら(昔まどかを絶対助けると誓ったほむらにも見える)達が囲んでじっと見ている。これは自分が殺した、あるいは助けられなかったと自分を責める気持ちだと思われる。

 

まどかを救うことができなかった自分をほむらは泣きながら何度も叩き潰す。
(どうして救えなかったのかというほむらの悔しさや悲しさが伝わってくる)

 

その記憶を魔女化したほむらが大事そうに包みこむ。ここまでの流れを考えるとこの行動に無念さや悲しさを感じる。

 

(魔女のアップから視点は引き、魔女とその周りの様子が映される)

大切な記憶以外何も持たず、周りに絶望しかない高地で一人じっとたたずんでいる魔女が映る。

魔女はすべてを失ってしまったかのように力なくただ空を見上げる。(うつ状態のように見える)

そして高地から絶望の世界へ落ちてしまう。

(セリフ→これが、魔女。私の感情が、追いかけてくる。)


(ここからほむらの情緒的な演出であると共に魔女の巨大さやきれいさ、美しさなどの圧倒的な存在感も表現されているように感じた)

巨大化した魔女が画面外から現れる。


場面変わり、街にかかる橋の上の魔女の卵が大量の白い糸を噴き出しているシーンとなる。

(セリフ→輝きと後悔だけしか、もう思い出せない。)

 

卵からどろりとあふれ出す血。そこから生まれるカラス型の大量の使い魔。
座っていたほむら型の兵隊は次々と立ち上がる。空には亀裂が生まれ、そこから血があふれ出る。 (→よく見ると空ではなく、始点は不明だがコロシアムの魔女の出てくる部分とつながっていた)
巨大なコロシアムのような場所を破壊し、手錠のついた魔女が現れる。
魔女は空を仰いだかと思うと、あごから上が切れて下に落ちてしまう。
(合わせる顔がないという意味?)

クローゼットに押し込まれたまどかの顔が映り、クローゼットの扉は閉まり、下からシャボン玉が上がってくる。
(セリフ→ああこれが私の、絶望。)

ここの演出は、大切なものを心の奥底にしまう様子にも見えるし、(クローゼットが閉まることで)大切なものを思い出せなくなってしまう様子にも見える。いずれにせよ、ほむらにとってまどかは本当に大事な存在であることがわかる。

 

大量の兵隊は行進し、魔女の顔は落ちる。魔女は落ちた顔を思いっきり踏みつぶして兵隊と共に行進を始める。
(ここまでの流れを見ると顔をつぶす演出は「面目ない」を意味するように思う)

 

(巨大化した魔女の映ったシーンから魔女が行進を始めるシーンまで)

今までこの世界は何とか平和に保たれていたが、ほむらの自覚によってどうしようもなくなってしまった(ただ終わりに向かうのみとなってしまった)という流れが表現されているように感じた。

 

 

(ここから兵隊と魔女の様子、流れのようなもの)
正面を向く大量の兵隊。
それに引っ張られる魔女。
(魔女についている拡声器を通してのアナウンス→まどか、こんなところまで、迎えに来てくれてありがとう。)

 

シーンが変わり、離れた場所にいる泣いたトカゲがアップされる。

そして拡声器を通さない声で「最後にお別れをいえなくて、ごめんね」とつぶやく。
その後、トカゲはべしゃりと潰れて死んでしまう。
これはほむらの魔女になっていない最後の部分だと感じた

→この後のまどか達が戦うシーンを見ると、まだしゃべることができていたため、魔女化しても意識は残っているように感じた(これは特殊な環境下にあるため?)。また、この演出のトカゲはすべてをあきらめる前の様子で、べしゃりと潰れる表現は(遺言を残して)心が折れてしまった、全てをあきらめてしまったものだと感じた)

結果として魔女だけが残り、行進を続けるだけとなる。

 

魔女世界の背景のテーマはほむらのキーポイントである時間(時計)とその歯車。

 

追記:文がわかりにくく色々間違っている部分があったため、少し書き直しました。(2018/12/27)

日記

荒廃した世界をあてどもなく歩いている気分だ。

物質的な問題はない、ただ不安や焦りや倦怠感がまぜこぜになったような感情と閉塞感がある。

目につく、消化できる大抵のコンテンツでは楽しめなくなってしまったし、楽しめるコンテンツでも楽しさはすぐ消えてしまう。

周りには大量の課題とその締め切り、人間関係が配置されていて、歩くたびにそれらとエンカウントしてしまう。

自分だけそれらの量が多いとは思わないし、周りの人はそれらをうまくさばけてるんだろうけど、なんというか彼らはこういう感情とはあまりかかわりがないんじゃないかとは(実際そういうわけではないだろうけれども)思ってしまう。

 

昨日まではとにかく休みたいと思っていたが、いざ休みになってみるとより閉塞感が強くなった。

なぜならばこの後に待っている大量の課題や人間関係などがいやでも認識されるからだ。

 

長期休暇が欲しいが自分では作れないし過去には戻れないので冬休みや春休みまで耐え忍ぶしかない。

しかしそれは院試や卒論などの非常に大きな問題がそれだけ近づいてくるということでそれはそれでつらい。

本格的に研究が始まれば長期休暇という概念はなくなるだろう。

今は長期休暇が(大袈裟な表現だけど)希望なんだけど、これがなくなるならば普通の休日や一日の中に安らぎを見つけなければならない。

雑記

いつからなのか判然としないのだけれど、感想をかけとか思ったことは?などという質問にうまく答えられなくなってしまった。

たぶん小学校から中学校くらいまでは求められているものが明白でそれを口にすることに何のためらいもなかったんだけど、さすがに歳を重ねると発表をほめるとかものの考え方について考えさせられたとかだけでは通らなくなってくるし、思ってもいないことを書いているこちらも苦痛になってくる。

そうすると別の何かを書く必要が出てくるんだけど、それが全く思いつかない。

この発表は面白かった。この発表は挙げる例は多いが結局何を伝えたいのか釈然としない、価値を見出せない。この発表はこの点は面白かった。ここが興味深かった。

別にそれくらいの感想しか出てこない。

周りを見ると小さい感想カードに小さな文字でびっしり書いている人が多い。

よくそんなに出てくるな。と思う。

みんな必要なことを理解し、それをちゃんと出力できている。

 僕はこの大学のレベルですらそれができない人間なのかという気持ちになる。

 

最近同じ研究室の一人と話す機会があった。

彼には破壊衝動があるらしい。

彼によると、ものを壊すのがとても気持ちいいらしく、一週間に一度くらいの頻度で紙を引き裂いたり、めちゃくちゃにしているらしい。

また、破壊衝動の周期はだんだんと短くなっているらしく、人のいるところでこれが現れるようになるのがとても怖いらしい。

この自白に対して僕はどう返したらいいかわからなかったので一言、なるほど。と返した。

 

彼は非常に理屈っぽく、抑うつ的で僕に少し似ているところがある。

ただこういう人にありがちなこととして、最初はとても仲良くなるんだけど、結局うまくいかないというのがある。

これには二つほどパターンがあって、一つは僕のことを見限り、ちゃっかりワイワイグループにすっと溶け込むパターン。

もう一つは、僕の話を全く聞かなくなる、いちいち突っかかってくるパターン。

たぶん彼らは僕を反面教師として自分の欠点を発見し、それを克服できたから上記のような反応を起こすのだと思う。

ただ、確かに僕の行動のどこかがおかしいというのはこれまでの人生の中でうまくいっていないことからわかるんだけれども、これがどこなのかというのが全く分からない(もしくは薄々気づいててそれをあえて認識していないだけかもしれない)ので対策しようがないな。