ツイッターでこういう話が流れてきた。
全体の大雑把な流れとしては
- 薄暗い欲望(リョナ、レイプ願望など)を持つのは勝手だがそういうものに興味があるということを自覚していないと
ふとした時に自分が無自覚なまま加害者の立場に転じる(セカンドレイプをしてしまう)可能性が
ある。そのため筆者は
興味を持つからには、その興味のうしろめたさも自分で抱えろ
という主張をしている。
- この意見の例として「魔女集会で会いましょう」という創作に対する意見の紹介。その中でも筆者は特に
自分が持つのはそれを眺めるという欲望だから危険ではないと思っている。
という意見について注目する。
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これに関する例として最近のツイッターの実録漫画がある。その傾向は
他人の私生活に投稿者が萌え(≒好奇)を感じ、本人には無断で漫画や文章にし、公衆で共有した
というもので、筆者はこれに対して
他人の人生をコンテンツとして消費する。
という暴力性があると主張している。
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インターネットにそのような光景を記すということは個人で萌えを感じるだけの状態を逸脱し、公衆に発表することになっている。これはつまり個人の生活が他人の見世物として勝手に切り売りされていることを意味し、筆者はそのさまが極めて不気味で暴力的だと述べている。
- 最後に、どのような欲望を抱いても構わないが
欲望を抱いている自分の「眼差し」を自覚し、「当事者になること」を忘れないでほしい
という主張で終わる。
という感じだ。(流れの要点をぶっこぬく練習としてまとめてみたけど結構難しかった。うまくまとめられただろうか)
結局ここで何が言いたかったのかといえば、おそらく「どんな欲望でも持つことは構わないが自分がそういう欲望を持っており、それが実際にどんな問題を孕んでいるかを知っておくべきだ」という意見だと思う。
まあ今回自分が書きたかったのはこれよりかは本文の途中で出た「フィクションと現実をわけるべきだ」という意見の方で、その意見を読んだときは「はぁーこれなー」ってなった。
自分は今までフィクションの結果が最終的なゴールになると思っていて、つまりフィクションは僕の現実に対するモデリングだと思っていた。それは例えば高校に行けば、大学に行けば彼女はできるだったり、ひたすら頑張っていれば周りも認めてくれて、集団のトップになって彼女もできるだったり、しっかりやっていれば幸せな人生を歩めて彼女ができるだったりする。
だけど最近それはあくまでフィクションでの結果に過ぎないということをようやくおぼろげに自覚し始めた。というか自分足らしめる何かとそこに同化していたそれの区別がようやく少しつくようになった感じだ。
ようやく現実問題に対する見通しが成熟し始めたといったところだろうか。(まあ要はモデルと現実が違う変数で動いていた(違う変数がさらにあったという方が正確だと思うがそれはメモリを食うので考えない)ことがわかり始めた)
さっきから何度もようやくという言葉を使っているがこれは今まで長い間見通しが甘い、現実問題に対する姿勢が甘いということをおぼろげに自覚していたにもかかわらず、その姿勢を変えられなかったのだが、これでやっとその姿勢を変えられるきっかけができたのではないかと期待しているからだ。(まあそれに気づくだけではなく、今までの甘い見通しを否定した見通しをしていくことで自分と、同化しているそれとを区別していく必要があるが)
とりあえずこれからはそれを意識していこうと思う。