昨日今日と休日だった。
やはり休日はいい、素晴らしい制度だ。
前回の日記で休日は閉塞感が強くなると書いたが、あれはあの後に避けられない面倒なイベントがあったからだと気がついた。
昨日やったことといえば課題、友達と飯に行くくらいだし、今日は買い物に行って課題をやっていたぐらいだけど、好きなだけ寝ることができて人の多い空間に束縛されることもコミュニケーションを無理にとる必要もないのはとても安まる。
今度他大の友達が学祭で朝から劇をやるということなので友達と観に行くことにした。
ただ、そうすると課題をする時間が結構減るのでそれでも大丈夫なよう、自分のレポートの締め切りとか講義の時間とかをエクセルにまとめて予定を立ててみた。
まとめていて気付いたんだけれど、可視化すると現状を客観的に見ることが出来そうだ。
まあどの程度客観的に見れているかはわからないが、とりあえず一歩引いた視点から現状を見ることができる。
その結果、クソゲーだなという感想は出てきた。
お金などの資源系のものも可視化したら無駄を減らせそうだと思った。
人間社会は基本的にサバンナと変わらないと最近特にそう思う。
強いものが利益を持っていき、弱いものは損をする。
強くなるためには全体の濃度勾配を自分が高くなるように調整しなければならないので、他人の取り分を減らさなければならない。
そのためうまくマウンティングしたり、けなしたりすることで弱い人の価値をさらに下げてその人の自由にできる領域を狭めて自分のものにするというのがあるんだけど、これは人間に元来備わっているものらしく、サークルなどの閉鎖空間ではよく起こるし、今日は交差点で5歳くらいの子が妹とみられる子に対して行っていた。
自分はそういうことが下手だ。
ただこの戦略が強いのは本当にクソゲーだと思うので、早くこのクソゲーから解放されたい。
ブログを書いていると叔母の訃報が母から届いた。
亡くなったということがどういうことなのかとてもとらえがたい。
適切な反応は何だろうかと考えているが思いつかない。
フィクションではわーっと泣いたり、急いで帰郷して、親族と悲しむ。などがあるが現実でフィクションみたいな行動をとるのは間違いだということが最近分かってきたので、たぶん間違っていると思う。
適切な反応は思いつかないが、ただ身近な人が亡くなったということがなんとなく重苦しさというか感情にやるせなさとか取り返しのつかなさみたいなフィルターをかけたような状態ではある。
叔母の訃報は昨日、母から今日は山場だと伝えられていたので藪から棒ではなかった。
フィクションの山場は大抵越えられるもので、越えた後は記憶喪失などの不幸でリハビリを行うか、全快のどちらかだからまあ大丈夫かなどと思っていたが、実際は越えられずそのまま亡くなってしまった。
やっぱり山場は越えがたいものなんだと実感している。
叔母は僕が小さいときに会ったのと中学生くらいで祖母の家にいるときに会ったくらいだと思う。
祖母の家には昔からよく行っており、帰省もする。
一方、叔母の家は祖母の家ととても近いのに全然行っていないし叔母にも会っていない。
祖母の家に叔母が来ることもあったが、その時はなんだかんだ自分の中で理由をつけて会わなかったし、祖母も無理に会えとは言わなかった。
僕が生まれたときは結構お世話になったらしいけどその記憶はない。
本当に僕は親不孝というか恩知らずだな。
祖母も胃に癌が見つかったらしく、近々胃を切るようだ。
祖母とは家族で一番密接にかかわっているので祖母の訃報が届いたら僕はたぶんしばらく立ち直れないと思う。
全体的に全く文がまとまっていないし論理性もなくて申し訳なさがある。
とどのつまり言いたいことは今大変で本当に人生はクソゲーだ。ということだ。